芭蕉翁生誕380年記念事業 語り部さんと芭蕉のゆかりの地めぐり
令和6年11月23日(土)ときめき部会主催による『芭蕉翁生誕380年記念事業 語り部さんと芭蕉のゆかりの地めぐり・日本料理 料り喜で伊賀牛炙り丼とくらさか風月堂の和菓子付き』を開催しました。
お天気にも恵まれ、伊賀ぶらり体験博覧会(いがぶら)冊子からじゃらんを通じて申し込みをいただいた20名の皆さんと語り部さん、スタッフ、そして「旅する芭蕉クン」も合わせて総勢35名で忍者市駅(旧上野市駅)から上野南部地区の史跡散策へ向かいました。
【本日の散策コース】
忍者市駅(旧上野市駅)➡上野天神宮➡入交家住宅➡赤井家住宅➡愛宕神社・忍者神社➡蓑虫庵➡日本料理 料り喜
[受付の様子]
[山本会長と木宮部会長からの挨拶]
[松本零士氏がデザインした伊賀鉄道のラッピング列車と「銀河鉄道999」のメーテルと鉄郎の銅像]
[ 芭蕉翁銅像の前で記念撮影]
[ハイトピア前からさまざま広場を通って上野天神宮(菅原神社)にGO!]
[さまざま広場には、俳聖松尾芭蕉の「さまざまの 事おもひ出す 桜かな」の句碑があります]
[上野天神宮(菅原神社)に到着です!]
[三之町通りの入交家住宅前を通って中之立町通りの赤井家住宅へ]
伊賀国に存在した武家屋敷で、県指定有形文化財です。
[赤井家住宅前]
平成22(2010)年に主屋、茶室、土蔵、土塀ならびに長屋門が国の登録有形文化財に登録された武家屋敷です。
赤井家住宅は、城下町の三筋町より南一帯に広がる武家屋敷地である上野忍町にあり、城下町を南北に貫く中之立町通りの西側に位置しています。建物の年代は、長屋門が最も古く江戸時代末期の建築と言われています。他の建物は明治以降、茶室は昭和前期の建築です。
[忍之道を通って愛宕神社・忍者神社に到着!]
愛宕神社がある上野愛宕町は、寛永年間(1624年~45年)には町名が記録にあることから、城下町の町割りがされた頃には既に町として形成されていたと思われます。
本町通りから中之立町通りに入ると遠く正面に赤い鳥居と、こんもりとした愛宕神社の森が見えます。その鳥居をくぐり、石段を上がると拝殿があり、その奥に全体を極彩色で華やかに彩られた本殿があります。
慶長五(1600)年に、小天狗清蔵坊が神宮寺である大福寺(明治2年廃止)を創建し、元和2(1616)年には、藤堂高虎が勝軍地蔵権現を勘定し、新たな社殿を造営しました。当時の棟札には「元和2年大旦檀那藤堂高虎」とあり、加えて本願主に小天狗清蔵坊の名前が確認できると記録にあります。城下町において、上野天神宮と並び藩主や庶民から信仰を集めていた愛宕神社。藤堂高虎が、愛宕神社別当の大福寺に対して眼病平癒の期待を寄せていました。また、歴代藩主が越国する時には愛宕神社にお参りしていたことからもその信仰の深さがうかがえます。
阿多古忍之社は、愛宕神社の境内にある忍者神社です。
由来は、愛宕神社が修験者小天狗清蔵坊によって再興され、藤堂高虎公の命により創建されて約400年。
伊賀市が上野の町づくりや賑わいを進められる機会に、伊賀の忍者集団の名を世に問う努力に思いをいたし、忍びに関係する諸人の心安かれと祈る場を、日本古来の精神生活の基である神道形式をもって、忍の先人・雉子(きぎし)の御霊と、修験者・小天狗清蔵坊の御霊を奉斉いたしました。城下町で生活する人々に災い無く豊かな処、栄える処と祈願申し上げる聖地となります様思いをこめました。
【阿多古 忍之社由緒記より引用】
[芭蕉の門人 服部土芳の居宅 蓑虫庵へ]
芭蕉の門人・服部土芳の草庵で、芭蕉五庵(無名庵・西麓庵・東麓庵・瓢竹庵・蓑虫庵)の中で唯一現存している庵です。貞享5 (1688)年3月に 芭蕉がここを訪れ、庵開きのお祝いとして贈った「みの虫の 音を聞きにこよ 草の庵」の句にちなんで蓑虫庵と名付けられま
した。わらじ塚や供養墓の他、芭蕉の「古池や 蛙飛びこむ 水の音」の句碑などがあります。
《古池や蛙飛び込む水の音》
[恵美須神社に到着!]
由来は、社記によると、室町時代の永禄年間 (1558~69年)、教然大徳が夢のお告げを受けて上野の南郊に広がる蓮池のほとりに祠を建てて蛭子像を祀ったのが蛭子宮の始まりと言われています。宝暦7(1757)年の記録には「恵美須町ご縁日桃灯五つ片側へ打候事」とあり、蛭子宮の境内は縁日で賑わい、種々の催し物が興行されました。次第にこの行事が慣例化し、戎祭となりました。
毎年初戎大祭が1月19日(宵宮祭)・20日(本宮祭)仕舞戎大祭が11月20日に執り行われ、多くの人で賑わいます。
【算磐型算額】
恵美須神社の算額は、よく見られる和算の問題と解答の記された算額とは形状が異なっていて算盤型の算額です。刻印には、安政6(1859)年に、平野屋和造の門弟らによって奉納されたと記されています。
遷座前には、旧神社の拝殿の通路上に飾られていましたが、遷座を機会に保存処理されました。拝殿右奥に縦57センチメートル・横181センチメートル・奥行9センチメートルの算額が飾られています。
平成26(2014)年に伊賀市の有形民俗文化財に指定されました。
※算額とは
社寺仏閣に額や絵馬に和算の問題や解法を記して奉納した絵馬で江戸時代中期(寛文年間)頃から始まった風習と言われています。
日本料理 料り喜さんに到着!
山本会長と木宮部会長からの挨拶
上野南部地区(11町)は城下町の町割りが残る旧上野市街地の南部に位置し、史跡や国の登録有形文化財、神社仏閣やお地蔵さんなどがたくさんあります。
上野南部地区住民自治協議会はまちづくり計画の一環として地域の文化遺産を取りまとめる計画をしました。時代の移り変わりの中でともすれば失われてしまうかもしれない地域のお宝を、たくさんの方の協力を得て取材し、『地域のお宝いっぱい 上野南部地区の歴史と文化~神社・寺院・地蔵・史跡めぐり~』としてこの冊子にまとめることが出来ました。
この冊子を活用して、上野南部地区の住民を対象とし、3回に分けて散策をしました。地区外の方にも上野南部地区を散策をしてもらうために、初めて伊賀ぶらり体験博覧会(いがぶら)を企画しました。伊賀市内の方はもちろん、名張市、津市、亀山市、そして県外(滋賀県・甲賀市)を含め20名の方々にご参加いただけたことを大変うれしく思います。
そしてこの企画をするにあたり、ご協力をいただいた自治会の皆様、日本料理 料り喜さま、くらさか風月堂さま、スタッフのみなさん、本当にありがとうございました。
これからも上野南部地区の魅力を発信し、多くの方々にお越しいただけるような企画を考えたいと思いますので、どうぞ宜しくお願い致します。